レオン・フライシャー

Leon Fleisher

Profile

ピアニスト、指揮者、そして指導者として著名なレオン・フライシャーは、舞台演奏のキャリアが60数年目にもなるが、彼は出生地のサンフランシスコで4歳 にしてピアノのレッスンを始め、8歳で最初のリサイタルを開いた。翌年、偉大なるドイツ人ピアニスト、アルトゥール・シュナーベルの下で学び始め、 1944年、16歳でニューヨーク・フィルハーモニックと共演を果たした。1952年、歴代初のアメリカ人としてエリザベート王妃国際コンクールにて優勝 する。フライシャーのキャリアはその後12年間上昇し続け、全ての主要なオーケストラ、指揮者と世界中で共演し、あらゆる場所でリサイタルを行い、ジョー ジ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団とベートーヴェン、ブラームス、ラフマニノフのピアノ協奏曲など試金石となるレコーディングを多数行った。

だが1965年、右手の2本の指が突然動かなくなってしまう。様々な治療法を試すも、一時的にしか回復せず、若干37歳にして引退をよぎなくされる。この ことは彼のキャリアにおいて決定的な瞬間であったが、最近の治療により、彼を人生の半分以上において蝕んだ局所的筋失調として知られる神経性疾患を取り除 いたのである。この数年、(頻繁にではないが)再び両手で演奏を行っており、40年ぶりに両手での演奏による「Two Hands」という音楽自伝的レコーディングを作成した。バッハ、スカルラッティ、ショパン、ドビュッシーの他、シューベルトの最後のピアノ・ソナタが収 録されており、その後「Journey」が続いてリリースされた。(発売:ヴァンガード・クラシック)。

ピアニストとしてのキャリアを突然閉ざされてから40年間、フライシャーは指揮者と指導者という2つの平行したキャリアを歩み、同時に左手ピアノのための 広範囲な、しかし限られたレパートリーを学んだ。1967年に指揮を始めたが、両手で再び演奏することを決してあきらめなかった。

1967年にケネディ・センターでシアター・チャンバー・プレイヤーズを設立し、1970年にアナポリス交響楽団の音楽監督に就任したことにより、フライ シャーは指揮者としての評価を素早く獲得した。1970年にモストリー・モーツァルト・フェスティバルでニューヨークでの指揮者デビューを果たし、 1973年にはボルティモア交響楽団の副指揮者となる。これまでにクリーヴランド管弦楽団、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽 団、モントリオール交響楽団、デトロイト交響楽団や、その他多数のオーケストラと共演している。新日本フィルハーモニー交響楽団とは首席客演指揮者として 各シーズン中に様々なコンサートで共演したこともあり、また、ヨーロッパ室内管弦楽団、グスタフ・マーラー・チェンバー・オーケストラとも定期的に公演を 行った。

後進の指導はフライシャーの人生において重要な位置を占めている。非常に崇拝されている教師であり、1959年よりピーボディ音楽院にて栄誉教授 (Andrew W. Mellon Chair)として務めるほか、フィラデルフィアのカーティス音楽院、トロントの王立音楽院の教授でもある。1986年から97年はタングルウッド音楽セ ンターの音楽監督として活躍した。アスペン、ルツェルン、ラヴィニア、ヴェルビエ、その他の音楽祭では世界中から集まった生徒たちと交流を行っている。ま た、ザルツブルク・モーツァルテウム、パリ音楽院、サンジャンドリュッツのラヴェル・アカデミー、マドリードのソフィア王妃学院、エルサレムのミシュケ ノット、ニューヨークのメトロポリタン美術館でマスタークラスを行っている。

「突然、私の人生で最も大事なことは両手で演奏することではないと気付きました」と、ベートーヴェンの5代目の弟子であるフライシャーは言う。1939年 にドイツからアメリカに渡った彼の指導者シュナーベルは、ポーランドの巨匠ピアニストであり指導者であったテオドル・レシェティツキの弟子であり、レシェ ティツキはベートーヴェンに師事したチェルニーの弟子である。「テクニックではなく情熱が大切だということが、私がシュナーベルから学んだことです」とフ ライシャーは語っている。

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